昭和51年09月30日 朝のご理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」

 無常の風が例えば、吹いて来ておっても、それを吹き返すほどしの力というか、信心。まぁこの御理解は、結局死ぬ運命にあっても、その運命を変えて行く事が出来るほどしの力を持った信心だぞと、教祖は言っておられる訳ですね。いわゆる運命の切り替えが出来る。もうここではこうなると。運命の人がああなると。つぶれる運命の人がつぶれない。負ける運命に人が勝って行く。そういう様にその運命を変えていけれるほどしの信心。まぁ今日は結論を先に申しますと。
 昨日四国の川上さんがお礼に出てきておられます。今日もお参りになっとると思うですけど。こちらへお嬢さんが縁に着かれた。その着かれた先方の所で大変難儀な問題が起きた。先方には信心がないですから。そういうまぁ問題を大変、もう大変心配な事として。また、川上さん自身も先生大変な事が起こりましたというて、その電話が掛って来るほどしの事でしたから。大変難儀な問題である。それを私は電話で聞いとったら、まぁ吹き出したい様な、笑いだしたい様な感じの事ですけれども。
 当のご本人達にとっては、やっぱそうなんです。それでもう先生大変困った事が起こってきましたと、こう言う事なんです。そこで先方にはその、信心がないものですから、まぁ近所の当人さんというですか。お伺いどころですねいわゆる。まぁいろんなお祓いなんかをしなさる事をようとされる所のお家。だからそう言う事をしよったら、本当に藪蛇になって困った結果になると、私は思わせて貰った。
 で昨日その事のお礼を言っておられますのに。まぁ本当にもう親先生もう本当におかげを頂いてからね、もう親先生の祈りの強いのに驚きましたと。まぁなんの親先生の祈りが強い訳でも無かろうけれどもです。いうなら無常の風が、吹いて来よったものを向こうの方へ、吹き返すほどしの祈りを、まぁ感じたというのです。というのがです。その来なさるはずの、当のその当人さんがですね。大熱を出してから動かれんごつなられた。私はそれを聞かせて頂いてから本当に思いますですね。
 今日私はあのこの十六節を頂いて、その事を一番に思いました。ははぁ無常の風が吹いて来よっても、金光大神のお取次、金光大神の祈りというものはね。それを吹き返すほどしの力を有しておられるんだな。持っておられるんだなと言う事ですよ。そういう意味での事ならお互い、ここでの信心信奉者の上には、もう絶えずそれが、そういう意味合いに於いて、目には見えないですけれども。そういういうならばおかげを、みんなが受けておると思います。だから今日ね。
 私がその結論を先に言うと言う事は、どう言う事かと言うと絶えずそういう強い祈りを、私ども合楽の信奉者一人一人の上にです。ほんなら私の祈りが、行きわたっておるんだ、吹いておるんだと言う事なんです。それでねそれを受け止めるのはです。信心を頂いておると言う事が有難い。合楽にご縁を頂いておると言う事が有難い。何時も親先生の祈りの中にあるんだ有難い事だと私はそういう心持が、何時もある限り無常の風は向こうへいうならば、吹き散らして下さるほどしの働きが現れてくると思うですね。
 問題はどう言う事かと言うと。収入を頂いておる事が有り難いと感じる。所がほんなら有難い、今日私御神前に出ましたら、あのあれはお謡いかなんかにありますかね「猩々」というのがありますね。赤い髪の毛をこうして、大きな盃を持った舞がありましょうが。あの猩々がね。その盃をポーンと捨てたところを頂いたんです。そして私はどういう意味か分からなかったけれども。まぁ猩々と言えばあれは、酒を大変好むと言う事でしょう。好むものですね。
 ですからその杯を捨てると言う事は、信心をさせて頂く者がです。有難いというものが消えた時には、もう信心のない者も同じ事だと言う事です。というてほんなら、何時も心の底から、有難いものが込み上げてくるほどしにと言う事じゃないですよ。いわば信心を頂いておると言う事は有難いと。そこに難儀を感じておってもです。何時も親先生のいうならば、強い祈りの中にあると言う事が有難い。それなんです。
 それが実感として思えておるならば、信心を頂いておる値打ちが、そこにある訳であって、信心の有難さもなからなければ、祈りの中に祈られておる私と言った様なものを、実感が出来なくなったら、もう信心のない者も同じ事です。また参ってきて拝む時、また信心を取り戻すと致しましてもです。それではただ拝む時だけの神様だと言う事になるです。それではね、無常の風をほんならば、向こうに吹きやる様な働きは起こってこない。だから、信心を頂いておる値打ちというものは。
 何時もその盃を持って何時もお神酒を頂いて、有難き勿体なき恐れ多きの神酒を何時も自分の心の中に、感じておると言う事なんだ。信心を頂いておると言う事が有難いという事と同時に、それをもう少し具体的に言うならば、今も高松つぁんの例を持って申しましたようにそういう強い祈りが何時も、私の所に送って頂いておるんだという実感と申しますか。例えそこにどういう問題があってもです。親先生の祈りの中にあるんだ。祈りの圏内にあっての事なんだと、喜ばせて貰う有難いと思わせて貰う。
 そういう心がある限りです。その強い祈りを受けとめる事が出来ると言う事でございます。今日はこれが答えなんですよ。私は昨日のご生誕祭を奉仕させて頂いて。後にお話を、皆さんに聞いて頂く時に何時もの事ながら、神様の演出の素晴らしいのに驚いてしまいます。もうこれは一事が万事、そうなんですけれどもね。昨日一日中の事にそうなんですけれども。お説教台の前に立たせて頂いて、さぁ今日は何を話そうかと、思うて立つんです、私は何時も。
 そしてたまたま、昨日新聞の校正をここにあの、持って来ましたから。それを竹内君と幹三郎と二人で、説明をしてくれて読んでくれておった。だから今度の新聞に出てくる事の、私が読んでおった事を聞いて頂いた訳です。それもほんなら奇跡的なおかげのシリーズではない、他にもそんなものが載ってた。脳膜炎の人が助かった。助かっても馬鹿になると言うとが、馬鹿になるどころかそれこそ、大変な優秀な頭脳で一流大学に入学したとか。十年も子供が出来んのにお取次を頂いたら。
 その月から月のものが止まって、妊娠のおかげを頂いたとか。六年間も親戚の病院で治療をしたけれども、愈々体がリュウマチで動けなくなって、そこから始めて秋永先生に叱られて、同時に合楽に日参するようになって、その不治と言われるそのリュウマチの克服が出来たとか。両親が子供を、ものを言わぬ子供を連れてきた。一晩泊ってお月次祭を頂いた。一口ではあるけれども、ものを言うようになった。
 あくる日は宮崎まで帰る道々に、じゃんけんぽいを言うようになって、もう楽しゅうして、有難うしてその道中を、感動一杯で両親が帰った話やらが、今度の新聞に出てくる訳です。だから私はそういう話を致しましたらね。昨日の敬親会の方達が、改めてもう目を見張って聞くんです。それにその前の日に、富永先生ところの癌の二人が、おかげを頂いて、お礼に出てきた話。そしてまた一人の癌のお届けがあった話。
 昨日一昨日は山田先生が、百日間の修行で胃癌のおかげを頂いた話、お礼に出てきた話。おかげ話というものは実に魅力がある。私はそのおかげ話を、昨日させて頂きながら思いましたよ。いうならここの部落の方達のお年寄りやらは、信心話やらが分かられたとは思われんけれども。そういういわばお話がです、それが真実性を持っての、そればってん、先生が嘘を言いよりなさるとは思われないという、昨日今日の話をするもんですから。本当に目を見張って、お話を聞かれると言う事なんです。
 おかげ話というものは有難い。今日の御理解から言うとです。そういう難儀な事に、運命にある人がです。新たな運命が切り開けれて行く様子を、奇跡的な助かりによって、昨日は、聞いて頂いたんです。だからこれだけでは話がね。実を言うたらお話にならんのんです、ただのおかげ話だけでは。痛いのが治ったのが有難いのではない。何時もまめなのが有難いのぞと、その後の御理解で生きてきた訳です。実を言うたらほんなら、合楽に参ってです、ね。助からんものが助かった。
 開けん筈のものが開けてきた。そう言う事ではなくて、信心をさせて頂くならばです。痛い事もなからなければ、痒い事もない。金が足りないという様な事もなからなければ、人間関係で特別、お願をしなければならないほどしの事もない。家庭も円満でいうなら、貧争病のおかげを頂いておると言う事。日々おかげで有難い、日暮らしが出来ておるという事が有難いと分からせて頂く信心。
 それもたまたま、昨日の朝熊谷さんが、そのお届けをされたんです。何時もバスで参って見える。後ろの方におりなさったげなら、運転手が前の方から何か話しかけるそうです。そるけん、こっち手前の人にその言いよるかと思いよったら、熊谷さんに話しかけよった事じゃった。それが運転手席から後ろの方に聞こえるごと、大きな声でその熊谷さん、あぁたもう、大体金光様に日に何べん段お参りしよりなはっですかち言うて。はぁ私ですかというて、返事をしたというのですよ。
 だから乗っとるものが、みんな聞いてる訳です。まぁ朝晩ですばってんまぁいろんな、ねぇごつかがあるとまた昼間参るけん、やっぱ三回も参るごたるこつがありますとこう言うた。それから運転手曰くです。やっぱ参らにゃ、気色の悪かでっしょねとこう言うた。ぞうたんのごともう私共は三十年近く、毎日お参りしよりますばってんその困ったけん、難儀なけんでと言う事じゃ。
 初めはそうでした。けれどもね参らにゃおられん、参らにゃ馬鹿らしかと言うて、心に力を頂いて行く実感、心に光を頂いて行く、有難い事を運転手さんに話した。自動車に乗っとるもんはみんな、その事を聞いてる訳です。皆さんな私がこげんして、日参り夜参りしよると、よっぽど難儀なこつがあって、参りよるごと思いなさるばってん。そげな段じゃないですよと言うて、ほんなら信心はアヘンになるという風に言われて、参らにゃ気色の悪かごたる風な信心では、決してないと言う事。
 おかげを受けて日々が、いうならば金銭のお繰り合わせを願う事もなからなければ、体のどうぞ助かりますようにと言う事でもなからなければ。家庭が円満に行きますようにと言う事でもない。もうそういう人間の幸せの、全てが足ろうて、おかげを頂いて、その有難い勿体ないが、参らにゃおられんという信心にならせて頂いておる事が有難いというその話を、昨日しましただからその奇跡的な助かりの話しからね。その熊谷さんの話でお話がたった、短いお話でしたけれども。
 非常に生き生きとしていた。ははぁ、信心と言うのは、ね。ただ困った時に頼むと言う事だけが信心じゃない。この事ば願わんならんけん、参るとじゃない。段々おかげを頂いて、信心を頂いていうならば、何時も信心を頂いえおると言う事が有難い。何時も親先生の強烈な祈りの中に、その圏内の中にあるんだと本当に分からせて頂くようになったら、貧争病は解決するです。信心を頂いておると言う事が有難い。
 そういう有難いを持ってして、始めてです無常の風を、向こうへ吹き返す働きというものが生まれてくるんだと。昨日も私はその奇跡的なおかげを頂くと言う事であってもです。そんなら誰もかれもが、頂けると言う事ではないけれども。その奇跡的なおかげを頂いておる人達の、信心の内容というものを探ってみると。ま、一心が立っておると言う事。または取次者を生神様として参って頂いておると言う事。
 そういう内容があって、金光大神のお取次が、天地の親神様のお働きと取次の働きと、願うものの一心の真というか、一心にすがるというその三つのいうならば、信心の芯になる様なものが足ろうた時に、いうなら人が目を見はる様な、奇跡的なおかげになってるんだ。お願いはしたばってん。大坪さんにお願いしたでは、大坪さんがたしか、おかげはないという話を致しましたね昨日。
 だから奇跡的なおかげを頂くというても、その矢張り必ず要素がある。おかげを受ける筈だという。そしてそう言う所でです。神様のいわばその働きを、本当に成程神様ちはござるという様な実感が出来てくるようになり、それから信心を段々、分からせて貰うようになり。信心がいうならば痛い、痒いが治ったのが有難いのではない、何時もまめなのが有難いと。もう愈々大きなおかげに気づかせて貰う。
 いわゆる生かされて生きておる喜びが、心の中に一杯に広がってくる。信心を頂いてる者も信心を頂いていない者も、そういうおかげの中に浸っておっても、おかげと実感が出来ると言う事が信心だと。そういうおかげを受けておるというその実感が、いうなら今日は無常の風を向こうへ吹き返すほどしの働きになってくるんだと言う事を、今日皆さんに聞いて頂きましたんですね。今日は結論を先に申しました。
 こうなる筈の所が、例えば難儀な事になって行く運命のものが、幸せの道が開けてくる。死ぬる筈のものが助かるほどしのおかげ。無情の風は時を嫌わんと言うが。金光大神の道は、無常の風に時を嫌わすというほどしの、強烈な祈りの風というものが、私ども一人一人の上に、吹きまくっておる訳ですけれども。それを受け止める心は信心を頂いておると言う事が有難いなと、実感でき感じておらなければ、それを受け止める事は出来ないと言う事を、今日は聞いて頂いたんですね。
   どうぞ。